2009年07月04日

高校卒業後に大学医学部に入学できるが

日本と同様に、高校卒業後に大学医学部に入学できるが、医学部入学には「統一試験」なるものが存在し、面接、筆記、書類審査とが厳重に行われた後医学部入学の許可が与えられる。医学部は約5年制で、各大学ごとに様々なカリキュラムが組まれている。卒業後は1年間の臨床研修が義務付けられ、その後に専門とする診療科を選択する。ここで大きく「家庭医(家庭医療/一般医療:General practice)」と「病院医(専門医療)」とに進路は選択され、それぞれ研修が行われる。そして研修終了の後にそれぞれ一般認定医、専門認定医の試験があり、合格して初めて「医師」としての独立した診療行為が許されている。

一般的に医師免許はその国の中でしか通用しないが、英国の医師免許はニュージーランドなどのイギリス連邦加盟国や植民地でも通用する。
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英国の植民地の住民が医師を目指す場合には英国の医大に入学する場合が多い、特に医大のような高等教育機関を持たない植民地の場合はイギリス本国かイギリス連邦加盟国の医大へ行くしかない。 このように、英国の医師免許は国際免許のような性格を持っているため、シンガポールやブルネイなどの経済的に豊かな小国で医師を目指す人間が英国の医大に入学して医師になる場合が非常に多い。

このため、イギリス連邦なら絶海の孤島であっても医師の質が比較的高い場合が多い。

香港などでは返還前はイギリスの医師免許を持った医師しか医業を行えなかったが、返還後の現在ではイギリスと中国の両方の医師免許が通用する。

2009年06月14日

クジラ類の中で最も大きな性差をもつ

本種は全てのクジラ類の中で最も大きな性差をもつ。標準的なオスの体長は約16- 18mであり(長さの比較資料:1 E1 m)、メスの約12- 14mと比べて30?50%も大きく、体重はオス50t に対しメス25t と、ほぼ 2倍の差異がある。なお、誕生時は雌雄いずれも体長約4m、体重 1t 程度である。ハクジラの中では最大種であり、成長したオスには体長が20mを越えるものもいる。

本種を特徴づける著しく肥大化した頭部は、その長さがオスで体長の3分の1に達する。これは、クジラ類の中でも例外的に巨大である。脳は、おそらく全ての動物の中でも最大・最重量であり、成体のオスでは平均 7kg に達するが、身体サイズに比べれば決して大きな脳を持つとは言えない。

背中の色は一様に灰色だが、日光の下では褐色に見えるかもしれない。背中の皮膚は通常凸凹(でこぼこ)で、他の大きなクジラのほとんどが滑らかな皮膚をしているのとは対照的であり、ホエールウォッチャーはこの背中の様子をプルーンに喩える。
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噴気孔(呼吸孔、鼻孔)の位置は頭部正面に集中しており、遊泳方向に向かって左側にずれている。そのため、潮吹きは前方に向かった特徴的なものとなる。背鰭(せびれ)は背骨に沿って前から3分の2の場所に位置し、通常は短い二等辺三角形の形状をしている。尾は三角形で非常に厚い。クジラが深い潜水を始める前には、尾は水面から非常に高く引き上げられる。

北極から南極まで世界規模で分布しており、深海沖に最も多くが生息している。社会的単位は安定していて、雌と子は部分的に母系の集団で暮らす。オスは高緯度の寒流域にも進出するが、メスと子は暖流域の外に出ることは滅多にはない。
日本では小笠原に定住している。普通マッコウクジラは回遊することが多いので、これは特異な事例である。

2009年05月29日

球戯場の誓い

議論が進まない事に愛想をつかした第三身分の代表達は、三部会に見切りをつけ、自分達だけの議会「国民議会」を発足させる。そしてヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集り、憲法を制定する事と国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しない事を誓った(球戯場の誓い・テニスコートの誓い)。ただし、ミラボーや一部の議員の中には、国王の承認なしに議会をフランスの代表とする事に懸念を示す者もいた。

第一身分、第二身分代表中にも、アンシャン・レジームに無理がある事を理解している者がおり、そうした者たちも国民議会に参加した。国民議会との軋轢を避けたいルイ16世は、国民議会を正式な議会として承認し、王の説得により他の第一身分・第二身分の議員も合流した。承認を得た国民議会は憲法制定国民議会と改称して憲法制定に着手する。内心では議会を承服しかねるルイ16世ではあったが、事態を収拾し、改革の芽を残すには止むを得ない手段であった。しかし特権貴族や王族はこれに反対し、第三身分に圧力をかけるため、軍隊をヴェルサイユとパリに集結させる事を国王に強要した。

国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、7月11日に国民に人気のあったネッケルが罷免された。これに怒った民衆は、1789年7月14日、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃した。パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生した。
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これらの動きを受け、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を宣言し、8月26日に人権宣言を採択した。この時点ではまだ国王が主権者であったので、法律の制定には国王の承認が必要であった。しかしルイ16世は、民衆が主導する法令を拒絶し、これらの宣言を承認しなかった。王妃マリー・アントワネットが、第三身分を侮蔑していたのを始め、国王の周囲は強硬派で占められていたのである。

政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価が高騰しはじめると、10月5日、パリの数千の女性達が武器を持って雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、国王と議会に食糧を要求する。一部は暴徒と化したため、ルイ16世はこの圧力により人権宣言を承認し、彼女等に連れられてパリのテュイルリー宮殿に家族と共に移り住む。これ以降、ルイ16世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになる。

この時期の革命は、穏健なミラボー、ラファイエットら立憲君主制派によって指導されていた。市民軍は自由主義貴族のラファイエットを総司令官に任命し、1790年、彼の提案により三色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となった。

2009年04月25日

ヴォロガセス1世

先王ヴォノネス2世の息子であった。父王ヴォノネス2世はメディア王からパルティア王となったが、即位してすぐに死去してしまい、妾腹ながらヴォロガセス1世が跡を継ぐこととなった。

彼は即位すると、弟のパコルス2世をアトロパテネ王とし、もう1人の弟ティリダテスをアルメニア王とすべく政治工作を行った。アルメニア内部の不満分子を扇動し、アルメニア王ラダミストゥスの排除に成功したヴォロガセス1世は、正妻腹の弟ティリダテス(アルメニア王としてはティリダテス1世)をアルメニア王とすることに成功した(西暦54年)。この事件はアルメニアに大きな影響力を持っていたローマを刺激し、ローマ皇帝ネロは将軍コルブロを派遣し、この問題に対応した。

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一方のヴォロガセス1世は、国内で息子のヴァルダネス2世の反乱が発生した(西暦55年)他、ヴァルダネス1世の治世よりパルティアに反抗的な姿勢を取っていた従属王国の1つアディアバネの王イサデス2世とも対立が深まって開戦に至り、東方ではサカ人の侵入を受け、更にヒルカニアでも反乱が発生した。

ヴォロガセス1世は国内各地を転戦してそれぞれに対応したが、その隙に西暦58年、ローマ軍はアルメニアに侵攻し首都アルタクサタは占領されティリダテスはパルティアに逃げ帰った。ローマは新しくカッパドキア人ティグラネス6世をアルメニア王に擁立し、ローマ軍とアルメニア軍は更にアディアバネを攻撃した。アディアバネでも新しく王となっていたモノバズス2世は一時ローマへの帰順を考えるほど劣勢に追い込まれた。しかしパルティアの援軍を受けてアディアバネはこの攻撃を跳ね返す事ができた。

この一連の戦いの後、コルブロに東方全軍へのインペリウムが授与され、本格的な攻勢をかける。そしてローマとの間にアルメニア問題についての妥協が成立した。西暦63年にヴォロガセス1世の弟ティリダテスが再びアルメニア王に復位することとなるが、戴冠はローマで皇帝ネロの手によって行い、臣従の礼をとるという条件であった。ティリダテスは各地で大歓迎を受けつつローマに赴き、以後パルティア、アルメニアとローマの間は50年以上、トラヤヌスの時代まで平穏であり続ける。

こうしてアルメニア問題では一定の成果を上げたが、ヒルカニアでの反乱の鎮圧には失敗し、ヒルカニアは事実上独立王国となっていた。更にアラン人の侵入を受けて、アルメニアやアトロパテネが略奪され、アトロパテネ王となっていた弟のパコルス2世は逃亡に追い込まれた。アラン人の脅威に対抗するためにローマに援軍を求めることまで行われた。

西暦78年に死去し、息子の1人ヴォロガセス2世が跡を継いだ。


イラン的伝統の復興 [編集]
ヴォロガセス1世の治世は、目だって「非ヘレニズム的」な文化が表にあらわれ始めた時代であった。彼はパルティアの王の中で初めてパフラヴィー語を用いてコイン銘を書かせた王である。またコインの図像にもゾロアスター教の祭壇が登場するなどしている。既にアルタバヌス2世時代末期からヴァルダネス1世時代にかけて発生していたセレウキア大反乱以後、ギリシア人ポリスは政治的影響力を著しく低下させており、非ヘレニズム的要素が文化的に強くなっていくのはこのこととも関係があると考えられる。

ヴォロガセス1世はまた首都クテシフォンの近隣に新しい都市ヴォロゲソケルタを建設し、バビロンの近隣にはヴォロゲシアス市を建設した。クテシフォン自体も拡充され、これらの都市の興隆とは対照的にセレウキアなどは衰退に向かっていく。

ヴォロガセス1世(Vologases I、? - 78年、在位:西暦51年 - 78年)は、アルサケス朝パルティアの王。アルメニア王国の継承問題でローマと争った。

2009年04月09日

メロディックスピードメタル

メロディック・スピード・メタル(Melodic Speed Metal)は、ヘヴィメタルの一種。「メロスピ」と略されることもある。これと近いジャンルにメロディック・パワー・メタル(Melodic Power Metal)があり、こちらはメロパワと略される。後述するように両者の間には厳密に区別されるものはないので、日本語版ウィキペディアではこの項目で双方を一括して解説する。

解説 [編集]
ヘヴィメタルのスタイルとしては、叙情的なメロディ、疾走感、ハイトーンヴォーカルなどの要素を前面に押し出したものである。ドラムはツー・バスを踏み続けている場合が多い。隣接ジャンルにメロディック・パワー・メタルがあり、両者には、スピードを重視するか、重低音(パワー)を重視するかで区別される。

このジャンルにおける元祖的存在はジャーマンメタルバンド、ハロウィンであり、1980年代末期に発売したアルバムKeeper of the Seven Keys Part1, Part2(守護神伝)は日本とヨーロッパで大ヒットした。クラシック音楽からの影響があるという意味で、アクセプトやヴァイパーを源流として挙げる者もいる。

1990年代に入り、フィンランドのストラトヴァリウスやブラジルのアングラによって、クラシック音楽の要素を導入することが現在まで続く定番のスタイルとして確立された。そこには、イングヴェイ・マルムスティーンの影響も見て取れる。そのため、バンドによってはネオクラシカルメタルやシンフォニックメタルにも属する場合がある。そういった要素の少ないガンマ・レイや、その本家バンドとも言えるハロウィンは、メロスピの元祖ではあるもののメロスピそのものではないとする向きもある。

イタリア・ドイツ・スウェーデン・フィンランド・ブラジル・日本などに多くのバンドが存在するが、北米(アメリカ)では総じて人気がないようでありバンドの数も少ないが、メロディックパワーメタルの代表格としてキャメロットが存在する。ただ、近年アメリカにおいてドラゴンフォースが売り上げを急激に伸ばしていること、アヴェンジド・セヴンフォールド(A7X)のようにオルタナティブの要素を織り交ぜたメロディックスピードメタルを展開するバンドが登場[1]するなど徐々に浸透しつつある。

2008年現在、このシーンは類似したバンドにあふれている状態にあり、その中で勝ち残ることは容易ではない。

これに分類されるソナタ・アークティカ、ドラゴンフォースは共にメタル界の中堅バンド(メタリカなどの大御所に続くバンドとしての意味)と認識されおり、今後のメタル界の中核を担っていくことが期待されている

王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

2009年03月25日

名鉄発足の経緯

現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、(旧)名古屋鉄道が1930年(昭和5年)9月に改称した名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して発足したものである。

合併前の名岐は多額の内部留保を蓄えて名古屋式経営のお手本とも言うべき無借金経営を行っていたが、愛電は多額の負債(当時の金額で226万円)を抱えており、資本金の規模こそほぼ同等(名岐1910万円・愛電1709万円)ではあったが、その財務内容には雲泥の差が付いていた。

それまでの両社は、三重県方面への進出(伊勢電気鉄道の買収工作)や名古屋地下鉄道の運営方法など、当地域の鉄道運営の主導権を廻って対立することも多かったが、折りあたかも1930年代の日本は世界恐慌を境として、大陸(現在の中国など)への進出・利権を廻って欧米列強との対決(戦時)色が強くなり始めた頃であり、民間企業の間では国内(同一民族間)での競争・対立を止めて協調・合同(民族団結)へ向かう機運が次第に高まった時代であった。合併話が持ち上がった時点では、戦時立法である国家総動員法や陸上交通事業調整法も構想段階であったが、長引く昭和恐慌の影響もあって、愛電の経営が危機に瀕していることから、当地の交通事業を再編(統合)して安定した鉄道輸送を図るべく、名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。

当初名岐側は、事実上「愛電の救済合併」との意味合いが強く、相当に不利となるこの合併を渋っていたものの、当時の名古屋市長が仲立ちしたこともあって結局この話を断れず、更には愛電側の顔を立てるため、表面上は対等合併(合併比率は名岐1:愛電0.8)の形を取って行われた。

このため、新生名古屋鉄道初代社長には名岐社長である跡田直一の就任が内定していたが、合併日(8月1日)を目前にして病死(7月17日)した事から、急遽愛電社長の藍川(同副社長に内定)が繰上がる形でその座に就く事となり、旧名岐の社員からは、病床にあった跡田の死を見越した「藍川の会社乗っ取り」との声も聞かれた。実際、旧名岐の社員であった土川元夫(後に名鉄社長・会長を歴任)の回想では、合併契約により理事の社内資格(取締役に次ぐ上級部長職。現在の執行役に近い職位)の割り当てを受けていたが、合併後に「お前はまだ若いから」との藍川の一言で降格され、他の旧名岐社員も同様に左遷された旨を語っている。

両社の合併で中核企業が出来た愛知・岐阜両県では、陸上交通事業調整法施行後も法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした統合は「戦時」と言う時勢の後押し(法律の趣旨に従わせる半強制的な風潮)もさる事ながら、戦時統制経済の影響から小規模鉄道ほど深刻な経営悪化(不要不急旅客の制限による収入減と物資調達の困難化など)に見舞われた事情などから、経営統合による事業継続を求められての合併が殆どを占めた。

戦中・戦後の動き [編集]
合併後の名鉄は最初の課題として、旧名岐鉄道路線(西部線)と旧愛知電気鉄道路線(東部線)の連絡線建設を進め、省線(当時、現JR)名古屋駅の移転跡地を譲受し、そこに新ターミナルとして地下駅の新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)を建設・開業し、新生名鉄(東西連絡)のシンボルとした。

新駅には手狭になった西部線のターミナル押切町駅を置き換える目的もあったため、まず西部線から建設を進め、次第に物資統制が厳しくなる中にあって1941年(昭和16年)に完成・開業させ、その後、東部線のターミナル神宮前までの路線建設に着手し、1944年(昭和19年)に連絡線が開通した。その間、太平洋戦争の開戦など情勢は日増しに悪化する中、戦時緊急整備路線の指定を受けて鉄道省(当時)の全面的な協力を得たものの、それでさえ建設資材の調達には困難を極め、不用不急路線・設備の転用を図り、さらには新名古屋 - 山王間の高架橋部分を一部木材で代用するなど、急場しのぎの工事であった。また、線路は一応繋がったものの、当初同時期に予定された西部線の昇圧工事はこの情勢では見送らざるを得ず、金山駅を境にして以西は架線電圧が600Vに据え置かれ、結局、架線電圧が1500Vの東部線とは直通運転が出来ないままに終戦を迎えた。なお、当初計画では、新名古屋駅地上には本社を兼ねた駅ビルの建設も予定していたが、情勢悪化を受けて基礎部分の対応工事のみに留められた。

終戦直後は、名鉄も他の各私鉄・国鉄(当時)と同様に車両や設備の疲労・消耗が激しく、定時運行も侭ならない、更には満足な資材とて揃わない中ではあったが、いち早く西部線の主要各線を東部線と同じ1500Vへ昇圧する工事に着手し、東西路線の一体化を戦後復興の第一目標に据えて取り組んだ。この結果、戦災の傷が未だ癒えない1948年(昭和23年)には第一次の昇圧工事が完成し、新岐阜(現、名鉄岐阜)・新鵜沼・津島 - 新名古屋 - 神宮前 - 豊橋・常滑間などが一体的に運営(直通運転)されるようになり、現在の運行形態の基礎が出来上がった。

なお、合併前の1929年(昭和4年)にも先述の「名古屋地下鉄道」として直通路線の構想は存在したが、着工までに至らなかった。

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2009年03月09日

現国立歌劇場の音楽監督

小澤征爾
現国立歌劇場の音楽監督。ウィーン・フィルとの共演は、ザルツブルク音楽祭の「コジ・ファン・トゥッテ」で代役として登場した1966年に遡る。その後ムーティ、メータ等とともに長年の共演によって、楽団ともお互いの信頼が厚く定期の他、音楽祭や演奏旅行にも同行している。2002年のニューイヤーコンサートは大成功し、そのCD・DVDはベストセラーにもなった。
岩城宏之
ハイティンクの代役で、日本人として初めて定期演奏会の指揮台に立った。その際、ウィーン・フィルの指揮の機会を得たことで、他のオケを振るときのギャラの提示額が上がるぞとウィーン・フィルの楽員に言われ、実際にその通りになった、と自著で記している。
レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

小泉和裕
1976年のザルツブルク音楽祭で代役として指揮している(ハイドンの交響曲第92番『オックスフォード』、チャイコフスキーの交響曲第5番)。
ピエール・ブーレーズ
異色のコンビで方向性が合致しないかと思われたが、解像度の高いアプローチながら楽団の特性を打ち消すことはなく、楽員から尊敬を得ている。シェーンベルク、バルトーク、マーラーなどがコンサートのメインだが、一方でハイドンなど意外なレパートリーも披露している。指揮者ブーレーズのしたたかさはウィーン・フィルの演奏において確認できるといっても過言ではない。ドイツ・グラモフォンでは、巨匠不在の時代における補充の意味で多くの録音を行っている。2007年で一応引退を表明しているが、2008年以降も予定が入っている。
ズービン・メータ
インド人ながらウィーンで指揮をハンス・スワロフキーに学んだメータは、1959年にこの楽団でデビューして以来、ほぼ毎年のように定期の指揮台に立つ主軸の指揮者である。ウィーンの伝統を大切に守る反面、個性味や音楽的な主張に乏しいという批判が評論家からは多い。ただし定期会員からの信頼は絶大で根強い人気がある。ちなみに現役指揮者の中でこのオーケストラと最も長く仕事をしている間柄でもある。
ニコラウス・アーノンクール
1970年代にデビューしたとき、ウィーン交響楽団の一楽員(チェロ奏者)である点や自己主張の強さから決裂してしまう。近年の関係は良好で、モーツァルトを中心に衝撃的な解釈を披露している。楽団は古典派の指揮をほとんどムーティかアーノンクールに託している。
ベルナルト・ハイティンク
古くからの定期演奏会の常連であるが、コンサート、録音において印象的な仕事はまだ残していない。
ジェームズ・レヴァイン
デビュー当時は極めて高く評価されて、モーツァルトやブラームスの交響曲全集等数多くの録音をし、コンサートにも度々登場したが、現在は招かれる事もなく途絶した。
ダニエル・バレンボイム
近年緊密になり、定期の他、ザルツブルクのオペラ公演の指揮なども任せられるようになった。2009年のニューイヤーコンサートの指揮が内定している。
ロジャー・ノリントン
アーノンクールと同じく古楽器派の旗印である。プローベでまるで漫才師のように楽員を笑わせながら、スムーズに進行するので楽員にはとても喜ばれているという。
ジュゼッペ・シノーポリ
イタリア出身の指揮者兼作曲家。ウィーン・フィルの楽員からは必ずしも歓迎されてはいなかったが、CD録音では高く評価されていた。1992年(ウィーン・フィル創立150周年)にカルロス・クライバーの代役として、事実上コンサートでの初共演となった日本公演は毀誉褒貶半ばした。
マイケル・ティルソン・トーマス
巨匠不在の時代のピンチヒッターとして指揮者陣に組み入れられたが、近年マーラーの演奏などにバーンスタインの後継者としての頭角を現わしている。
ヘルムート・リリング
典型的な合唱指揮者であるため、バッハのマタイ受難曲などの宗教合唱曲などで客演。
ヴァレリー・ゲルギエフ
マリインスキー劇場の公開性を推し進めて近年特に注目されている指揮者。1998年のザルツブルク音楽祭初共演では、ゲルギエフの野性味あふれるドライブにオーケストラ側が一目惚れし、以降重用されている。ショスタコーヴィチやチャイコフスキーなどお国もののレパートリー以外にヨハン・シュトラウスなども披露している(一時はニューイヤーコンサートへの登場も噂された)。
リッカルド・シャイー
サイモン・ラトル
首席指揮者の候補格で、日本においても披露されたベートーヴェンの交響曲全集など、旧時代と新時代が融合したような鮮烈な出来栄えであったが、ベルリン・フィルの常任指揮者となって以降は共演も限定されている。
セミヨン・ビシュコフ
コンサートよりもオペラの方に軍配が上がり、ザルツブルクでのR・シュトラウスの「ばらの騎士」や、国立歌劇場でのワーグナーの「ローエングリン」など好評を得ている。
チョン・ミョンフン
定期演奏会に数回登場しているが、ドヴォルザークのレコーディングを残して近年は関係が疎遠である。
マリス・ヤンソンス
レコーディングにおいてはバイエルン放送交響楽団やロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団との方が良い結果を残す傾向がある。2006年のニューイヤーコンサート初登場では選曲のよさ、フレッシュな音楽作りで大成功を収めた。
クリスティアン・ティーレマン
ドイツの若手・中堅指揮者の中核としてウィーン・フィルにおいても重用されている。オペラ劇場の指揮者としての腕前も確かだが、コンサート指揮者としてもR・シュトラウス、ブルックナー、ベートーヴェンなどスケールの大きなドイツ物を得意としている。フルトヴェングラーを大いに尊敬し、骨太の硬質な響き、ドラマティックで雄大な音楽作りは、往年のドイツの巨匠を彷彿とさせる。
フランツ・ウェルザー=メスト
久しぶりにオーストリアから現れた期待の星として、若くから将来を嘱望されて来たリンツ生まれの指揮者。30歳にしてテンシュテットの後を継ぎロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。その後チューリッヒ歌劇場、クリーヴランド管弦楽団を歴任。ウィーン国立歌劇場でも実績を挙げ、小澤征爾の後任として次期音楽監督の座を得た。ウィーン・フィル定期への登場は1998年と遅いが、これを成功させ地保を固める。楽員に先輩・同級生が多くやりにくさもあるというが、オーケストラとも親密な関係を築いており今後の共演も期待される。
ダニエレ・ガッティ
オペラではヴェルディなどイタリア物が中心だが、ワーグナー、ブルックナー、シェーンベルクなどのドイツ物をも得意をとするイタリア人指揮者。
ダニエル・ハーディング
29歳にしてマーラーの交響曲第10番(クック版)でウィーン・フィルに定期に初登場した。ラトルに次ぐ極めて独創的かつ衝撃的な指揮ぶりは大いに注目されている。
インゴ・メッツマッハー
マンフレッド・ホーネック
シモーネ・ヤング
ウィーン国立歌劇場の音楽監督に指揮者が就任すると、その指揮者との結びつきは強くなるとも言われる。また、レコーディングやザルツブルク音楽祭など指揮者の決定に彼らの意思が及ばない場合もある。あまり有能とはいえない指揮者が指揮台に立つ場合は、むしろウィーン・フィルの自主性が大いに発揮されるといわれている。

実質的な首席指揮者
オットー・ニコライ 1842年-1847年
カール・エッケルト 1854年-1857年

首席指揮者
カール・エッケルト 1860年
オットー・デソフ 1860年-1875年
ハンス・リヒター 1875年-1882年
ヴィルヘルム・ヤーン 1882年-1883年
ハンス・リヒター 1883年-1898年
グスタフ・マーラー 1898年-1901年
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世 1901年-1903年
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世は、マルチタレントともいうべき音楽家で、優秀なヴァイオリニスト、そして宮廷歌劇場における有能なバレエ指揮者、およびオペレッタの作曲家であった。彼は宮廷歌劇場で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の指揮者を練習なしで受け持った時、大した混乱もなく最後まで振り通すことができた。
しかし作曲家としてはその題材に無頓着な面があった。父ヘルメスベルガー1世がある人から「あなたの息子さんの最新のバレエ作品があまりにもモーツァルトと似ている」と指摘された時、ヘルメスベルガー1世は微笑みながら「あなた、彼が真似するにふさわしい作曲家が他にいるでしょうか」と答えたという。近年ヘルメスベルガー2世の作品がニューイヤーコンサートにおいて採り上げられるようになり、2002年に演奏された「悪魔の踊り」は大きな話題になった。
フェリックス・ヴァインガルトナー 1908年-1927年
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 1927年-1930年
フルトヴェングラーはベルリンでの活動を主体にしていたとはいえ、客演指揮者制に移行した後も彼の死までウィーン・フィルの事実上の首席指揮者であった。
フルトヴェングラーの天才的な指揮に関して楽員から異論が唱えられることはほとんどなかったが、ヨハン・シュトラウスのワルツについては別であった。ある時、アンコールで演奏される『皇帝円舞曲』をフルトヴェングラー流の仰々しい演奏ではなく、ウィーン風に演奏しようと楽員で申し合わせ、実際そのとおりにしてしまった。後で良心の呵責を感じた楽員から感想を求められたフルトヴェングラーは「素晴らしい。いずれにせよ私は君たちが弾いたように指揮したのだから」と語った。
フルトヴェングラーはリハーサルでも常に全力投球で臨んだが、その姿勢はウィーン・フィルの楽員とは根本的に異なっていた。練習中の楽員たちのやる気のない態度(もちろん他の指揮者も悩まされる)に怒り狂い、しばしば練習場を飛び出してしまうことがあったが、幹部たちに宥められて戻ってきた時こう語ったという。「ベルリン・フィルは練習が最も良くて、ウィーン・フィルは本番が一番良い」
戦後はEMIによりこのコンビのスタジオ録音が数多く行われ、その数は「本妻」であるベルリン・フィルとのものを遥かに上回る数となっている。特に第3番「英雄」を筆頭とするベートーヴェンの交響曲の数々は、まさに時代を超えた不朽の名盤である。
クレメンス・クラウス 1930年-1933年
ウィーン楽壇の寵児であるクラウスとウィーン・フィルの関係は決して相思相愛とは言えなかったが、第二次世界大戦の終局で空襲の激しいウィーンに残り、楽員と行動を共にした指揮者はクラウスのみであった。クラウスが1939年から始めたニューイヤーコンサートは現在最も世界的に有名なクラシックのコンサートとなっている。ヨハン・シュトラウス、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナー、モーツァルトを得意とするレパートリーはウィーンフィルと最も合致し、現在のところ(おそらく今後も)最後の首席指揮者となっている。

2009年02月21日

ダウンタウンのごっつええ感じのコント

特撮ヒーロー番組のパロディーコント。けんたろう君(浜田)が地球征服を狙うオホホ星人夫妻(今田・西端→卒業後篠原。後に夫婦ではなかったことが判明する)によってピンチに陥った際、彼の父親である財前博士の発明した、胸にショートケーキのアップリケが付いた黒いシャツ、股間とお尻の部分が色付いたブリーフを穿き、常にヘラヘラとした笑顔を浮かべ、けんたろう君の指示には無駄に元気良く「うん!」と返事する、一見してアホそうなスーパー超人・アホアホマン(松本)を呼び出し、様々なアホアホアイテム(後述)を繰り出して戦うが、アホアホマンは見た目通りアホであるため、それらは全く役に立たなかったり逆に状況を悪化させるなどし、結局ピンチを助長してしまう。最終的にはピンチが全く解決されずに幕となったり、けんたろう君がアホアホマンのアホさ加減にブチ切れて自力でオホホ星人を退治してしまう。
アホアホマンは本来まともな性格に作られていたらしく、オホホ星人に攻撃されたり、けんたろう君に殴られたり、さらにはアホアホマン自身が滑って転ぶなどして頭を強打すると突如我に返り、正義の超人として絶大な戦闘能力を見せるが、直後に頭部に同様の衝撃を受けてまたアホに戻ってしまう。
アホアホマンの兄弟分、アホアホブラザー(ナレーションで松本が「血の繋がりは無いが、小さい頃から幼馴染みで自然とお兄ちゃんと呼ぶ様になった兄なのだ。」と説明。即ち赤の他人)を坂本龍一が演じ、視聴者の度肝を抜いたことがある。ソフトクリームのアップリケが付いたピンクのシャツを着て、前後が激しく色付いたブリーフを穿いた、どぎつい扮装。オホホ星人が作った、地球を滅亡させるオホホ爆弾の発射を阻止する為登場。アホアホミュージックと称し、ピアニカで「戦場のメリークリスマス」を奏でたが途中で失敗する(意図的なもの)。次に「アホアホ合体」で兄弟で合体する技を使うが、実際には松本が坂本の背後から乳を揉んでいるだけだった。その際、乳を揉まれながら坂本のナレーションで「何て気持ちが良いんだ・・・」と恍惚に浸る。最後は爆弾の発射ボタンをアホアホブラザーが勝手に押し、けんたろう君が「死ねお前ら!」という言葉を残し、オホホ星人と共に逃げてしまう。残った二人は再びアホアホ合体をするが、コント終了後、素に戻ったアホアホマン(松本)が「もうイヤや!もう!!」と本音を漏らす。エンディングではブラザー姿のままの坂本が「君に、胸キュン。」を歌ったが音を外しまくり、浜田から「これホンマに持ち歌か?」「何か龍一ヘタクソやぞ!」と突っ込まれていた。因みに坂本が「energy flow」をリリースした頃HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMPにゲスト出演した際にアホアホマン出演時の事を語っており、ブリーフの尻の部分の茶色い汚れ(大便)は「あれ自分で付けたんだよ」と嬉しそうに答えていた。またこのコントがあってからは浜田の子供は坂本をテレビで見る度に「あ、アホアホマンだ」と呼ぶようになってしまったという。
企画段階では板尾がアホアホマンを演じる予定であったが、ちょうどその頃板尾が謹慎処分となってしまった為(松本曰く、「先にアホアホマンになってもうて」)、急遽松本が演じることとなった。
アホアホマンの出囃子はアニメ「無責任艦長タイラー」のサウンドトラックから引用された。
■主なアホアホアイテム
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

アホアホハンド(第一回)…右手に装着するいかにもロボット風の強化アーム。装着することで鋼鉄をも貫く100万パワーのパンチ力になるのだが、アホアホマンはキックしか繰り出さない。けんたろう君が「パンチだ!」と突っ込むと今度はアホアホハンドを装着していない左手でパンチを繰り出し始める。最終的にはけんたろう君が装着してオホホ星人を倒した。
アホアホバリヤー(第二回)…あらゆる攻撃を防ぐ電磁バリヤー。オホホ星人に光線銃を向けられた際使ったが、アホアホマンは自分やけんたろう君ばかりかオホホ星人までバリヤーに入れるという度量の広さを見せた。
アホアホビーム(第三回)…頭から発射される誘導ビーム。目の前にオホホ星人がいるのに、何故かけんたろう君の方ばかりに向かっていた。
アホアホファイヤー(第三回)…目から放たれる火炎放射。研究所に放火しようとするオホホ星人を阻止しようと使ったが、建物に向けて放たれ、研究所は炎上する。
アホアホジャケッツ(第四回)…ラメの入ったジャケット。アホアホマンは今年の夏はこれで決めるつもりらしく、助けを求めるけんたろう君の前でポーズを取る。
アホアホダイナマイツ(第四回)…オホホ星人の秘密基地に閉じ込められた際、扉を破るために出したダイナマイト。「ダイナマイト」と命名されているが、爆発すると爆心地から半径1kmは10年間草木1本生えなくなる程の甚大な被害を受ける。核爆弾に匹敵すると言うより、核爆弾そのものと定義して差し支えない程の破壊力を有しており、けんたろう君は慌ててスイッチを切りに走った。
アホアホカプセル(第四回)…これを飲むと小一時間眠る、要するに睡眠薬。アホアホマンは絶体絶命のけんたろう君を放置して眠りについてしまう。
アホアホ携帯電話(第五話)…「携帯電話」と銘打ってあるが、実はコードレス電話の子機。無論これだけでは何の役にも立たない。
アホアホマザー(第五回)…アホアホマンに知恵と勇気を授けてくれる、母親のような存在の叔父(蔵野)。しかもバカボンパパのような服装かつハゲヅラを装備。大方の想像通り何の役にも立たない。
アホアホバズーカ(第五回)…巨大化したオホホ星人に対してアホアホマンが繰り出した、絶対命中するという必殺武器。だが蓋を開ければ…。
アホアホバイオエレクトリックシステム(第八回)…出した本人にも何なのか解らず、役に立たなかった。
アホアホショベルカー(第十回)…財前博士の墓石に押し潰されたYOU子ちゃんを助けるため繰り出した、数トンの岩をも持ち上げるショベルカー、の模型。
アホアホドール(第十二回)…「YOU子ちゃんなしでは生きていけないよ」と言ったけんたろう君のために出したビニール人形。アホアホマン曰く「これをYOU子ちゃんだと思って生きていくのだ!」。けんたろうは「あかんねん!こんなぐにゃぐにゃでは!」と突っ込んだ。
アホアホロープ(第十二回)…30メートルの穴に落ちたYOU子ちゃんを助けるため繰り出した、超合金で作られた10万トンの重さにも耐えるロープ。なお、全長はおよそ20センチ。
アホアホロングロープ(第十二回)…30メートルの穴に落ちたYOU子ちゃんを助けるため繰り出した、アホアホロープの倍の長さのロープ。
アホアホチェーン(第十二回)…30メートルの穴に落ちたYOU子ちゃんを助けるために出した、ダイヤモンドと同じ硬さの超合金でできた金属環同士を、非常に弱いプラスチックでつなぎ合わせた鎖。人間の体重を支えることはおろか、手で引っ張っただけで千切れる程脆弱である。
アホアホバキューム(第十二回)…30メートルの穴に落ちたYOU子ちゃんを助けるために出した、大きな吸い込み口の付いた掃除機。吸引力は抜群だが、電力を食いすぎたのか、後一歩のところでヒューズが落ちてしまった。
アホアホブーメラン…あらゆる物を切り裂くブーメランで、YOU子ちゃんを天井からつり下げているロープを切り裂くはずであったが、狙いを外してけんたろう君の背中に刺さってしまい、けんたろう君からどつかれた。
アホアホ高枝切りバサミ…天井に吊るされたYOU子ちゃんのロープを切る為に使った。が、誤って(?)YOU子ちゃんの髪を切り刻み、ほぼ坊主頭に。アホアホマン曰く「かなりボーイッシュになったのだ。」
アホアホウイング…大空を自由自在にに金曜日の夜だけ飛べる。放送は日曜日の夜なので飛べない。
アホアホダイナミック…アホアホマンが今一番気に入っている言葉。
アホアホコンタクト…装着すると相手の弱点が一発でわかるコンタクトレンズ。しかし、つける前にどこかへ行ってしまい、けんたろう君からどつかれる。
アホアホウォーター…大量の水が降ってくる。しかし、水がかかったのはアホアホマンとけんたろう君のほうだった。
アホアホカモフラージュ…すりガラス越しにボイスチェンジャーで喋るテレビの身の上相談風の攻撃。無論、意味は無い。
アホアホ分身…と言いながら全くの嘘。けんたろう君から「嘘ついたらイカンやろ!」とどつかれる。

相方がひどいコントシリーズ
浜田の弟子・今田が楽屋にて相方を紹介して漫才を披露するコント。今田が探してくる相手は、極度に長い乳をもった「さっちゃん」、多汗症のデブ「大入道くん」、乞食の「梅ちゃん」、寝たきり老人の「十兵衛さん」、極度に長い髪にウロコだらけの腕を持ったバケモノ「蛇の目ちゃん」といった変わり者ばかり。特に蛇の目ちゃんが考えてきたネタは、ダウンタウンのネタである「『あ』研究家」をもろにパクった「『え』研究家」。パクリに怒る浜田に対し蛇の目ちゃんは「あんた最近芸が荒れてきてんのとちゃうか!」と逆ギレ、一陣の風とともにバケモノの本性を現す。

あげ玉
常に大衆演劇風の着流し姿と立ち居振る舞いを貫く、還暦を迎える若干おネエ口調のベテラン俳優・あげ玉(松本)。刑事ドラマで刑事役を演じるのだが、撃たれても大衆演劇風のステップで小躍りしたり、おかしな目線で見得を切ったりして倒れようとせず、監督(今田)を呆れさせる。しかし、監督はこづれ狼の監督(撮影所直属と思われる)ほど立場が強くないのであげ玉にまるで逆らえない。その為、あげ玉の大衆演劇風の独特の演技に対して直接ダメ出しする訳にもいかず、カメラマンの東(東野)に演技指導して、そこをあげ玉に見せて納得してもらうという形を取るなど、大層苦労して演技指導するはめになる。「あげ玉刑事」第一回はテレビドラマだったのだが、第二回はVシネマに格下げになった。だがあげ玉は「シネマ」の部分だけを聞き取って、映画に出演している=格上げだと思い込んでいる。しかもドラマの時の視聴率は1.2%と非常に悪く、しかもグラフの形は真っ平。最初から見ていたごく一部の人以外、誰もチャンネルを合わせなかったのだ。

あざみ
中年女性あざみ(今田)とその夫・たくちゃん(松本)が、映画の子役オーディションなどに売り込みにやって来る。面接官の浜田に「こんな事もありました」と2人の昔話を始め、最後は2人の絡み(オーラルセックス)やショートコントを再現する。面接官は初回こそ困惑気味で、優しめの口調でなだめようとしたものの、次第に毎度やってくる二人にあきあきしてしまい、「死ねお前ら!」「病気になれ!」「寝込め!」と辛辣な言葉をかけるようになるが、二人には全く通用しない。必ず面接官に賄賂を渡すが、それも冷蔵庫の野菜室・カップラーメンの粉末スープ・UFOキャッチャーのつかむ所など、訳の分からないものばかり。浜田が二人のネタで唯一気に入ってたのは、ネタのブリッジとしてデタラメな歌詞で歌った「フランダースの犬」の主題歌で、「おもろいのん、そこだけや」と評していた。板尾・蔵野に130Rのネタをやれとムチャ振りしたり、子役(YOU)が本名を喋ったりと本編後のアドリブも見もの。なお浜田がコントの冒頭でしばしば口にする「テレス」とは番組制作会社ニューテレスのこと。
■これまでに売り込みに来たオーディション(かっこ内は放送日)

音芸プロ制作「十二少女冒険記」出演者オーディション(1996年4月14日)
音芸プロ"若手No.1スター"反村洋史の妹 オーディション会場(1996年4月28日)
音芸プロ"国民的超美少女"オーディション会場(1996年5月12日)
音芸プロ「風のボンジョルビ」準主役青年スター オーディション会場(1996年6月2日)
音芸プロ 朝の連続テレビ小説「みっちゃんのめしべ」ヒロインオーディション(1996年6月16日)
音芸プロ 青山子供ミュージカル「長靴をはいた少年」少年役オーディション会場(1996年6月30日)
音芸プロ 設立20周年記念作品「大地の海」マドンナ役オーディション会場(1996年7月21日)
音芸プロ 夏休み超大作「内閣総理大臣宇野宗祐物語」少年時代役オーディション会場(1996年8月18日)
音芸プロ製作 青春ミュージカル「僕を忘れない」少年役オーディション(1996年9月15日)
■パターン

面接官が「次の人どうぞ!」とまず最初に言い、あざみとたくちゃんが現れる。
最後際になると、他のオーディションを受ける人が現れ、面接官やその人たちに罵声を飛ばして帰って行く。

2009年02月05日

アンディ・ボガード(Andy Bogard)

テリー・ボガードの弟。ジェフ・ボガードに養子として育てられ、二人とも捨て子。そのテリーには一度も勝てないでいるという設定。
ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

二人は兄弟(実際は義理の兄弟)であるが格闘スタイルは異なり、兄のテリーはマーシャルアーツ+喧嘩殺法なのに対して、弟のアンディは骨法を使う。これはテリーに体格で差をつけられている事が理由で別のスタイルを探した結果、日本の骨法にたどり着いたという。その骨法の師は、『餓狼伝説2』から登場したキャラクター・不知火舞の祖父・不知火半蔵であり、その縁で舞とは恋人同士という関係になった。彼女に執拗に結婚を迫られるが、アンディは「自分は未熟で修行中の身、結婚なんてまだ早い」と考えているため、未だに進展がなく、その求道的な考えが舞をヤキモキさせる一つの要因となっている。

一人称は基本的に「僕」だが、『餓狼伝説3』など一部の作品(一人称が定められる以前)では「私」または「俺」になっている。またテリーの事も「兄さん」、または「兄貴」と呼んでいる。

『餓狼伝説2』の時点で師・不知火半蔵が死去。その後は不知火流継承者として修行をしたのか、『餓狼伝説3』以降は忍者のようなスタイルになり、必殺技が不知火の焔を纏うようになった。

『餓狼伝説3』のエンディングではギース・ハワードと戦った際に無理をしたらしく、吐血している。

『ザ・キング・オブ・ファイターズ』シリーズでは『2002』まではすべて出場していたが、『2003』以降は出場していなかった。『2003』では弟子である北斗丸がおたふく風邪のため、『XI』では舞にバカンスに連れて行かれたため、『KOF MAXIMUM IMPACT 2』では一度も勝てていないテリーに対抗できるだけの実力をつける修行をするため、それぞれ不参加となっている(ただし、『KOF MAXIMUM IMPACT REGULATION´A`』の特設サイトに掲載されているサイドストーリーにおいて、テリーに「戦うのはそう遠い話じゃない」と発言しているため今後の『MI』シリーズに参戦する可能性はある)。『XII』で、6年ぶりに出場が決定。

『リアルバウト餓狼伝説スペシャル (以下RBS)』で隠しキャラクターとして登場したEXアンディ・ボガードは、他のEXキャラクターと違いアンディ本人ではないようで、アンディの影であると当人が語っている。また彼の弁によれば、「不知火流には光と影が常に存在する」という。

『KOF完全読本』にも収録された『美形会議』では、『餓狼伝説』の美形キャラとして登場。主にこの会議を仕切るリーダー的存在である。何かと血を吐く橘右京に対して、痛いところを突きまくる八神庵に右京への謝罪を強い口調で要求する。たまにロバート・ガルシアにもからかわれる。また上記の『餓狼3』エンディングに関連してか、彼も血を吐くことがあった。美形キャラの存在価値にこだわりすぎて、会議とは無関係な不規則発言を飛ばすことが多い。庵にそれを指摘されてからは若干低姿勢になり、さすがに反省している様子。

モデルはアンディ・ガルシア[1]。

技の解説
必殺技
斬影拳(ざんえいけん)
アンディの代名詞である、素早い突進からの肘打ち。『餓狼2』ではこの技でハメ技が可能だった。「残影拳」は誤植。
疾風裏拳、疾風横拳 (しっぷううらけん、しっぷうおうけん)
『餓狼伝説3』以降の「斬影拳」からの追撃技(技名がついたのは『RB餓狼』から)で、裏拳で相手をふっ飛ばす。「疾風横拳」は『KOF'99』以降での追撃技で、「疾風裏拳」とほぼ同様。
我弾幸(がだんこう)
『KOF'96』〜『'98』での「斬影拳」からの追撃技で、体当たりを決める。リーチが短いので空振る事がままあった。技名は漫画『覚悟のススメ』の劇中の用語「肉弾幸」が元ネタ。
飛翔拳(ひしょうけん)
掌から気弾を打ち出す飛び道具。『餓狼』シリーズでも『KOF』シリーズでも、見た目や性能の変化が激しい。初代『餓狼伝説』では幅が広いが、出が遅くて飛距離が短かった。しかし、以後の『餓狼』シリーズでは次第に隙が少なく幅が小さくなり、『2』からは飛距離が無制限になった。KOFでは『'96』から気を噴射する技に変更。また動作は『餓狼3』(KOFでは『'99』)から打ち出す手に反対側の手を添えなくなっている。
激・飛翔拳(げき -)
『RB餓狼』からの技で、「飛翔拳」のバリエーション。目の前に大きな気の塊を発生させる。『RBS』ではEXアンディが使用。
昇龍弾(しょうりゅうだん)
両手を広げて振り回しながら飛び上がる対空技。初代『餓狼伝説』の中間デモでは「空破弾」と表示されていた。
空破弾(くうはだん)
その場で前転してから、ドロップキックのように両足を揃えての飛び蹴り。北斗丸はこの技を受け継いでいる。初代『餓狼伝説』の中間デモでは「昇龍弾」と表示されていた。『餓狼伝説』でライデンに対して出すと間合によっては一撃でKOできる事があった。
幻影不知火(げんえいしらぬい)
『餓狼3』からの技。『餓狼』シリーズでは空中から別ラインに急降下して、着地して浴びせ蹴りで攻撃する。攻撃がヒットすると相手は別ラインに移動する(『RB2以外』)ので、更に追撃も可能。KOFでは別ラインがないのでそのまま急降下して、下の追加技に派生する。
幻影不知火・上顎 (- うわあぎと)
『'98』までは跳びつつ踵落とし(特殊技の「上顎」と同じ動作)、『'99』以降は振り下ろすように回し蹴りを繰り出す。中段攻撃。
幻影不知火・下顎 (- したあぎと)
『'98』まではしゃがんでの掌底、『'99』以降は足払いを繰り出す。
不知火蜘蛛絡み(しらぬいくもがらみ)
『餓狼3』からの技で、相手の背中におぶさり締め付ける投げ技。『餓狼3』では地上で入力し、『RB』以降は空中で入力する。『RBS』ではEXアンディが使用。『WA』では通常の背後投げ。
撃壁背水掌(げきへきはいすいしょう)
『KOF'95』からの技で、掌底のコンビネーションを繰り出す。『'95』では連続入力技だったが、『'96』以降は打撃投げに変更。
元ネタは漫画『北斗の拳』のジュウザの技で、最後の一撃がそっくりになっている。
闇 浴びせ蹴り(やみ あびせげり)
『RB餓狼』からの技で、炎を纏った脚を振り上げながら後転する。動作は特殊技の「浴びせ蹴り」のものを逆回しにした形になっている。『RBS』ではEXアンディが使用。
くない弾
『RB餓狼』でのダウン追撃技で、苦無をすぐ足元に投げる。『RBS』ではEXアンディが使用。
爆震(ばくしん)
『RBS』からの技。突進して相手に組み付き、掌底を打ち込む打撃技。『餓狼伝説 WILD AMBITION (以下WA)』では飛び込んでの移動投げになっている。『KOF'98 ULTIMATE MATCH』(以下『'98 UM』と表記)でも裏アンディが使用し、こちらも移動投げ。

EXアンディの技
斬影拳 穿(- うがち)
「斬影拳」を繰り出した後、影のような残像が追って突進する。追撃技は出せないが、残像がヒットすると相手はダウンする。
幻影不知火 飛影(げんえいしらぬい ひえい)
ダッシュからのみ出せる技。姿を消して背後に回り込み攻撃する。

[編集] 超必殺技(潜在能力)
超裂破弾(ちょうれっぱだん)
炎(あるいはオーラ)を纏った「空破弾」の強化版。『餓狼』シリーズでは『RBS』まではタメコマンド(しかもレバー真下以外でのタメは受け付けない)だった。
斬影裂破(ざんえいれっぱ)
『RB餓狼』及び『RBS』での潜在能力。「斬影拳」から立て続けに「超裂破弾」を決める。
飛翔流星拳(ひしょうりゅうせいけん)
『'97』からの技。二連続の掌底から、両手を突き出し練った気を噴射する。
斬影流星拳(ざんえいりゅうせいけん)
『'99』からの技で、「斬影拳」で突進してから「飛翔流星拳」に移行する。
昇龍裂破弾(しょうりゅうれっぱだん)
『DOMINATED MIND』での隠し技(潜在能力)。「昇龍弾」で飛び上がった後、さらに空中で「超裂破弾」を決める。
男打弾(だんだだん)
『RB2』での潜在能力。ボディブローの連打から、最後に正拳突きを決める。技名はジョーが命名したという。ネタ元はおそらく段田男。
斬徹(ざんてつ)
『WA』でのオーバードライブパワー。その場での掌底で始動する乱舞技。
斬影至兜裂破弾(ざんえいしこうれっぱだん)
『2002』及び『NEOWAVE』のMAX2。オーラを纏った「斬影拳」で突進した後、追加入力で上昇のみの「超裂破弾(に見えるが実は頭から突っ込んでいる為に違う)」を出した後、頂点付近でそのまま降りてくる。

EXアンディの技
絶 裂破弾(ぜつ れっぱだん)
「超裂破弾」とほぼ同じ技。『KOF'98 UM』でも裏性能版で使用できる。
爆裂天翔拳(ばくれつてんしょうけん)
潜在能力。「斬影拳」からさらに「激・飛翔拳」を決める。

2009年01月21日

別人物のシチリア王フェデリーコ2世(在位:1296年 - 1337年)

フリードリヒ2世(Friedrich II., 1194年12月26日 - 1250年12月13日)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1215年11月22日 - 1250年12月13日)、およびシチリア王(フェデリーコ1世、在位:1197年 - 1250年)。イタリア史関係ではイタリア名のフェデリーコ2世(Federico II)で呼ばれる事が多い(しかしこれによって別人物のシチリア王フェデリーコ2世(在位:1296年 - 1337年)と混同・誤用されることが多いので注意が必要である)。

しばしばローマ教皇と対立し、イスラム教徒や正教会に対する宗教的寛容を非難されて反キリスト(悪魔を意味する)と呼ばれ2回破門されている。また、当代随一の広い学識、合理性、科学的好奇心から畏敬の念も含めて「世界の驚異」と呼ばれた。近代以降は異文化交流によって培われた合理的思考から「王座の最初の近代人」と評価されている。ヨーロッパ最初の絶対主義君主ともいわれる。

フリードリヒ2世は1194年12月26日イタリア中部の町イェージで皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェ(イタリア名はコスタンツァ)の間に生まれた。コンスタンツェと結婚したことでシチリア王ともなっていた父ハインリヒ6世が1197年32歳で死去すると、ドイツ本国ではホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の争いが再燃し、幼いフリードリヒの身は危険になった。

母コンスタンツェは相続権を有するシチリアにフリードリヒを連れて戻り、皇帝の相続権を放棄した上で帝国からシチリア王国を切り離し、3歳のフリードリヒをシチリア王にし、自ら摂政となった。

コンスタンツェもその翌年1198年に没し、フリードリヒは教皇インノケンティウス3世の後見を受けてパレルモで成長した。

当時のシチリア島はキリスト教文化とイスラーム教文化とがノルマン人王朝のもとで融合しており、独特の文化を生み出していた。幼い頃より市井を探検するのが好きだったフリードリヒ2世は、ここでキリスト教徒やイスラーム教徒といったさまざまな価値観を持つ人間に触れ、数ヶ国語を話すことが出来たという。彼の異教徒への寛容と理解の精神はこの頃に育まれたものだと見ることが出来よう。また、イスラーム世界で進んでいた自然科学に興味を持ち、イスラーム文化の1つである鷹狩りに関する著書を記している。これは彼自身による詳細な生物観察のもとに記されているのが特徴である。著書の中でしばしば書かれている「ありのままに見よ」という言葉が、彼の自然科学者としての素質を示している。

神聖ローマ皇帝
1210年神聖ローマ皇帝オットー4世はローマ教皇によって破門された。翌1211年、ドイツの諸侯は選挙によって教皇の支持を受けたフリードリヒをドイツ王に選出した。1212年、フリードリヒはマインツで戴冠してその後7年間ドイツに滞在した。オットー4世は、1214年のブービーヌの戦いで敗れると諸侯の支持を失い、フリードリヒが名実共にドイツ王として認められた。

なお、教皇インノケンティウス3世はフリードリヒがドイツ王の位に就くとき、シチリア王位を嫡子(ハインリヒ7世)に譲らせ、さらにシチリアに留め置くこととしたが、1216年の教皇の死後、フリードリヒ2世はハインリヒを呼び戻した。

1220年フリードリヒ2世はハインリヒ7世にドイツの支配を委ねてパレルモに戻り、十字軍の実行と引き換えに新教皇ホノリウス3世から神聖ローマ皇帝位を認められる。このときドイツの聖職者諸侯はハインリヒ7世の王位を認める代わりに、関税徴集権・貨幣鋳造権・築城権、および領内裁判権の大半を与えられた。また、ドイツ騎士団の東方進出を認め、これによりプロイセン形成の基礎が作られた。

破門十字軍
教皇からは十字軍遠征を度々催促され、遅延を理由に破門される。1225年11月9日、ジャン・ド・ブリエンヌの娘のエルサレム女王イザベルと結婚。1228年、フリードリヒ2世は第6回十字軍を起こし、エルサレムに向かった。フリードリヒ2世とイタリア支配権を争っていた教皇グレゴリウス9世は彼を反キリストと罵り、破門皇帝の軍を正式な十字軍とは認めなかった。

新皇帝となったフリードリヒは聖地奪回を教皇に宣誓した。アイユーブ朝スルタンのアル・カーミルは使節をシチリア島の皇帝のもとに派遣した。使節はそこでキリスト教の教会に描かれたイスラーム教徒の像や、アラビア語の刺繍の入ったマントを着る皇帝フリードリヒを見て驚愕する。報告を受けたアル・カーミルはフリードリヒに書簡を送り、ここから2人の交友が始まった。2人は十字軍に関する話題を避け、お互いが共通に興味を抱く自然科学に関する話題をアラビア語で行ったという。しかし教皇からの執拗な聖地奪回の要請を拒みきれなかったフリードリヒは、武力によってではなく、アル・カーミルとの交渉によって聖地を回復した。この交渉には5ヶ月近い日々が費やされ、最終的にお互いが大きく譲歩することで和解した。

和平協定の大まかな内容は以下の通り。

イスラームの君主(スルタン:アル・カーミル)は皇帝(神聖ローマ皇帝:フリードリヒ2世)にエルサレムの統治権を譲る。
岩のドームはイスラーム教徒が管理する。
この和平協定を破るような軍事行動を禁じる。
もしキリスト教世界でエルサレムへ軍を送ろうとする動きがあれば、神聖ローマ皇帝はイスラームの君主を守る。
イスラームの威厳と尊厳を理解する者ならば、たとえキリスト教徒であっても岩のドームに立ち入れる。
エルサレムに入城したフリードリヒ2世は、聖墳墓教会でエルサレム国王として戴冠した。このとき岩のドームを訪れたフリードリヒに配慮したイスラーム教徒たちが、定時の祈りの声を挙げないようにした。これを聞いたフリードリヒは不快感を示し、「私はエルサレムへ着いたら、イスラーム教徒の祈りの声を聞くことを楽しみにしていた」と言った。彼の気持ちを知ったイスラーム教徒らは祈りの斉唱をしたという。

これにはフリードリヒ2世の語学的才能と外交の手腕が生かされており、パレルモの宮廷におけるイスラム教徒との接触で養った合理主義がよく表れている。しかし、教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世の行ったイスラム教徒との交渉を背教と非難したため、教皇派と皇帝派の争いはエルサレムに持ち込まれ、戴冠式に出席した聖地騎士団はドイツ騎士団だけだった。

フリードリヒ2世の支配の下、キリスト教徒巡礼者の安全は保障され、ムスリムもそれまでどおりの生活を許されたが、休戦期間は10年でありエルサレムの城壁の再建も許されていなかったため、その支配の継続性は極めて危ういものだった。

しかも、イタリアにおいて教皇派と皇帝派(ゲルフとギベリン)の争いが再燃し、フリードリヒ2世は帰国を余儀なくされた。帰国したフリードリヒ2世が教皇派の軍を撃破すると、教皇の権威は失墜する一方、曲がりなりにも聖地を回復したフリードリヒ2世の評価は上がり、1230年には破門を解かれた。

エルサレムの休戦は1240年に切れ、1244年に再びイスラム教勢力により陥落したが、イタリア政策で教皇と対立するフリードリヒ2世には、これに対処する余裕も意思も無かった。

息子の反乱
世俗の諸侯は混乱に乗じて、聖職者諸侯が得た特権と同じものを皇帝に要求し、フリードリヒ2世はイタリア政策に専念するためこれを認めた。王権の強化を狙っていた嫡子ハインリヒは父帝の政策に反発し、1235年に反乱を起こしたが敗れて幽閉され、その後に自殺した。また反乱に加担したオーストリア公フリードリヒ2世(好戦公)を追放し、1237年にオーストリアを皇帝直轄地とした。

フリードリヒ2世のイタリア支配は安定した成功を収めることがなく、1237年のコルテヌオヴァの戦いのようにしばしば軍事的な勝利を収めることはあったものの、教皇に従うドイツの諸侯や独立を望むロンバルディア同盟などの頑強な抵抗に遭って頓挫した。

1245年、教皇インノケンティウス4世は、フリードリヒ2世をイスラム教徒の友人、異端と非難して破門、皇帝の解任を宣言し、以降次々に対立国王を擁立した。
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フリードリヒ2世は1250年12月13日、カステル・フィオレンティーノ(現在のフォッジャ県サン・セヴェーロ付近)で没し、次男コンラート4世が後を継いだが、ホーエンシュタウフェン朝の支配は揺るぎ始める。

世界の驚異
当時十字軍にコンスタンティノポリスを追われていた東ローマ帝国の亡命政権(ニカイア帝国)の皇帝ヨハネス3世とギリシャ語で親しく書簡を交し合い、庶子のコンスタンツェをヨハネス3世の下へ嫁がせている。本来ニカイア帝国は西欧にとっては敵対勢力であったにもかかわらず、むしろ反ローマ教皇の同盟者として扱っていたのである。このことからも、いかにフリードリヒが宗教・教派の枠にとらわれない人物であったかが良く分かる。
シチリア王国にローマ法に基づく中世最初の国家法典「皇帝の書」(Liber Augustalis)を制定した。
シチリアは歴史的にギリシア人、サラセン人、イタリア人が同居し、これにノルマン人、ユダヤ人、ドイツ人が加わり、海外との交流も多い国際色豊かな土地であり、その中で育ったフリードリヒ2世はドイツ人というよりシチリア人であり、ノルマン朝の後継者であった。東ローマ風の王宮に住み、ハーレムに多くのアラブ人女性をはべらせていたという。
好奇心あふれる学者であり、動物学や占星術に興味を持ち、パレルモに巨大な動物園を持ち、ナポリ大学を創設している。鷹狩を好み、鷹の飼育に関する詳細な著作をしている。文学も好み、9ヶ国語を操り、ラテン語で著作をし、シチリア語で詩を作った。